60年以上の歴史を持つ土産店
火山と共生 昭和の雰囲気を今に
1943年から1945年にかけて続いた有珠山の噴火活動。麦畑が隆起してできたのが昭和新山です。今も噴煙をなびかせ、大地の変動を間近に見ることができる、洞爺湖有珠山ジオパーク屈指のポイントの一つです。
そのすぐそばで営業する観光土産店だるまやは、60年をこえる歴史があります。
活火山がもたらす、雄大な自然景観や温泉などの大地の恵み。多くの観光客が訪れ、そこに産業が生まれ、人は暮らしています。洞爺湖有珠山ジオパークのテーマ、火山との共生がここにあるのです。
代表取締役の井上官成さんは2代目。昭和、平成の有珠山噴火を先代とともに乗り越え、今も営業を続けています。
昔ながらのペナントが今も買える? ジオパークポロシャツも売っているの? 昭和の雰囲気が残る店内で、井上さんの「昭和新山への愛」にふれました。
二度の噴火と好不況の荒波
地域が手をたずさえ乗り越える
井上さんは壮瞥町出身。幼少期は昭和新山の目の前にある今の店に住み、休みの日は友達とおにぎりを手に山登り。大地の熱エネルギーを感じながら温泉卵を食べたとか。
先代がこの地で商いを始めたのは1957年(昭和32年)ごろ。当時は洞爺湖温泉街の自宅から、歩いて昭和新山まで通ったといいます。
「昭和新山が戦後に報道されてから有名になって、観光客や修学旅行生も洞爺湖温泉にどっと来るようになったんです」。
1960年代は高度経済成長のまっただ中。洞爺湖温泉と昭和新山は人気の観光地に。「何をおいても売れる。店もびっしり張り付いてお客さんは引っ切りなし。それはにぎやかでしたよ」。
高校生のころは、土産店の2階で喫茶と食堂も営んでいたことから、井上さんは手伝いをしていたそうです。
井上さんは、2度の噴火を経験しています。
1977年、高校2年生の夏のことでした。8月6日は、かつて昭和新山を会場に開かれていた火まつりが行われ、大勢の見物客で会場は大入り。大盛況の中、地震は頻発していたといいます。「これはおかしい」。感じたことのない揺れだったからです。
そう思いながらも、翌7日を迎えます。午前9時12分。朝食を終えて店の準備をしていると、外でだれかが騒いでいる声が聞こえました。本当に目の前で、風もなくまっすぐ立ち上る噴煙。「みんなのんきに眺めていた」と振り返ります。
昭和新山生成から33年ぶりの噴火の瞬間でした。
「当時は情報がない時代。昭和新山ができたのは知っていたけれど、周りの人は噴火の時にどう避難したかも知らない人ばかり。噴火したらどうしようかなんて、時間がたたないと分からなかった」。
「とにかく離れよう」。アルバイトの店員とともに洞爺湖温泉に逃げ、そこでも噴煙が見えました。虻田町の友人宅に身を寄せ、日が暮れて山の方を見ると、噴煙の中にいく筋もの火山雷を見たそうです。
当時、昭和新山地区には井上さん一家ほか数家族が暮らしていて、同じ町内の仲洞爺にあった教員住宅の建物に避難することに。火山活動が鎮まり帰宅するまで2年以上かかったといいます。
観光地にとって、営業できなくなることは死活問題。旅行のキャンセルが相次いだといいます。
「でも、みんな大丈夫、やれるだけやろうって雰囲気で。父たちには勢いがありましたね。キャンペーンを打とう、道内も道外もみんなでやろうって。同業でライバルだけど結束力がありましたよね」。
井上さんは旭川の大学に進学。そして卒業後の1983 年、23歳で実家の壮瞥町に戻りました。家業を手伝いながら、シーズンオフの冬は、腕を磨いてきたスキーのインストラクターをするようになります。
時は流れ、2000年3月31日。有珠山西山西山麓から再び噴煙が上がりました。「その時は雲仙・普賢岳の被災の教訓があって、地域には有珠火山観測所もありました。1977年の噴火の時と比べて、安全確保のための規制が厳しかった」といいます。
避難指示に従い、噴火する前に同じ町内の久保内の避難所に家族で身を寄せました。
この頃はすでに、井上さんは父から経営を引き継いでいました。2000年噴火後の3週間は一切店に立ち入ることができませんでした。ガスや水道も不具合があり、店に戻ることができたのは1カ月半後だったといいます。
再び噴火からの復興に地域が立ち上がり、途絶えた観光客が戻り始めた中で2009年、洞爺湖有珠山ジオパークが世界ジオパークに認定。噴火と好不況の荒波を、火山とともに生き抜いてきた歴史が認められたのです。
目を引くジオパークポロシャツ
昭和の本物のペナントも人気
だるまやの店内を見渡すと、カラフルなジオパークポロシャツが目にとまります。
NPO法人有珠山周辺地域ジオパーク友の会(三松三朗会長)からの要請を受け、店での販売や在庫管理の面で協力しています。「地元の取り組みだけに、できる範囲で協力したかった」といいます。
店は昭和レトロの雰囲気。北海道ローカルのテレビ番組の「懐かしのペナントを探せ!」というコーナーで、だるまやの「昭和新山」のペナントが紹介されたこともあります。「倉庫からひっぱり出した、昔仕入れた本物です。珍しがって買ってくれるんですよ」。
「昭和はずっと木彫りが売れていたね。新婚旅行にたくさん来られていて、お土産を買われるんですよ。1、2組来れば、木彫りが30個とか40個とか売れて。それだけで一日の売り上げになったこともあります」。
井上さんは、さまざまな人が訪れて交流できるのが楽しみといいます。海外から訪れる人も増え、今は韓国からが多く、主に団体。台湾は小グループが多いそうです。
新型コロナウイルスの感染拡大で外国人客は激減。観光業界全体がダメージを受ける中で、仕入れに変化も出ているそう。
「メーカーや問屋でやめたところもあり、新製品の開発の動きも止まっています。メディアで取り上げられたシマエナガは良いですね」。一番人気の白い恋人ソフトクリームを味わってほしいそうです。
多彩な表情を見せる昭和新山
「これからもここに生きる」
井上さんがおすすめするみどころは、やはり店の目の前にそびえる昭和新山。
定点で見つめてきたからこそ感じる、四季の移ろい。「それが良くってね。夕方はとても静かで。冬景色もいい。6月の緑あふれる姿もいい。有珠山ロープウェイの山頂駅から見るのも最高」とベタぼめです。
「今では考えられませんが、子どもの頃は子どもたちだけで山を一周していました。大人になってからも、山を所有する先輩の三松三朗さんと商工会の青年部3、4人で登ってね。山と一緒に育っていますよ」。
そして洞爺湖にも思い入れがあります。旭川の大学生時代、実家を離れてみて「洞爺湖ってこんなにきれいだったんだ」と感じていました。
「仕事もあって洞爺湖をじっくり歩くなんてなかった。コロナの影響で時間ができて、妻と夕方や朝に湖畔を歩いて、足湯につかって。そんな時間ができて良かったのかも」。
二度の噴火を経験して思うこと。それはこれからの「火山との共生」です。
「昭和新山は国立公園の中でもあり、2000年の噴火以降、新しい地域づくりは途上にあります。自分の残された時間はたくさんあるわけではないけれど、店を続けて、できるところまでこれからの地域づくりに協力したい」。
愛した昭和新山とともに、井上さんはこれからもここで生き続ける決意です。